X JAPANメンバー・hide~ギタリストではなくパフォーマーを貫いた男~

本記事はプロモーションを含みます。

どうもSimackyです。

本日はXのギタリスト

HIDE(hide)

(1964~1998)

をたっぷり語っていきます。

Xの先輩バンド『サーベルタイガー』のリーダー

HIDEは1964年神奈川の横須賀生まれです。

『HIDE=少年』のような見た目のイメージとは裏腹に、実はXで一番年上のお兄ちゃんになります。

XのメンバーはYOSHIKI・TOSHI・PATAが1965年生まれで真ん中、一番下が1966年生まれのTAIJIになります。

ちなみにその後加入するHEATHは1968年生まれで、TAIJIのさらに2こ下。

HIDEは一番年上なので、高校卒業してバンド活動を始めるのも当然YOSHIKIたちより1年早いわけで、千葉のバンドであったXが上京し、活動が軌道に乗り始めたときには、すでにライブハウスシーンでかなり名前の売れたバンドをやっていました。

それが『サーベルタイガー』です。

HIDEはこの頃からファッションセンスが斬新で、Xに入ったから過激なヴィジュアルになったわけではなく、もとからそうなんですよね。

サーベルタイガーではリードギターでバンドのリーダーをやっていました。

HIDEいわく

「パンクとかオルタナとかやりたくても、まわりがジャパメタばっかりだったかジャパメタやるしかなかった」

とのことで、このサーベルタイガーもツインギターのユニゾンとハイトーンボーカルを聴かせるアイアンメイデンみたいな正統派メタルバンドでしたね。

実はHIDE作曲として人気の高いXの『サディスティック・ディザイア』は、このサーベルタイガーでやっていた『サディスティック・エモーション』をアレンジし、YOSHIKIが歌詞を作り直したもの。

駆け出しの頃のXにとってはサーベルタイガーはまだまだ格上の存在だったみたいで、HIDEと初めて会った時の印象はTAIJI曰く

「外タレ(外国人タレント)みたいな存在だった」

とのこと。

実際、メンバーの実力はすばらしく、特にボーカルのkyoはサーベル解散後にデランジェでメジャーデビュー、後にダイ・イン・クライズを結成しメジャー活動を継続します。

YOSHIKI・TOSHIはXとして、TAIJIはデッド・ワイアとしてHIDEとの交流は生まれていたそうです。

この時代はライブ後の打ち上げが社交場みたになってて、とにかくライブの後はどんちゃん騒ぎで、関係者やファン問わず人が入り乱れるので、最初の出会いというのはほとんど覚えていないらしく、

「多分どっかの打ち上げで知り合った」

というパターンがほとんどらしいです。

まあ、そんなどんちゃん騒ぎの中で酔っ払ったYOSHIKIは、サーベルタイガーの他のメンバーがいるにもかかわらず、

「HIDEちゃん、Xに入れよ!」

とか声かけたこともあったそうです。

で、話すと長くなるので割愛しますが、このサーベルタイガーも色々人間関係がもめたらしく、リーダーをしていたHIDEはかなり落ち込んで、

「もうバンドはやらない。美容師になる」

と解散を発表し、引退宣言をして回りました。

で、最期にYOSHIKIに電話してバンド活動をやめようとしてたんですね。

けど、なんだかんだ未練が残るHIDEは、Xのバンド練習を見に行くんですよ。

で、ずーっと練習を見学して、その後、メンバー達と飲みに行きます。

この時のメンバーはすでにYOSHIKI、TOSHI、TAIJIが揃ってます(PATAはまだヘルパーだった頃)。

で、HIDEが落ち込んでいることに気を回して、YOSHIKIもその話題には触れず、とるに足らない話題を話してたらしいです。

TOSHIとTAIJIも気を使って、「シーン」としてたらしいです。

そしたらそれまで思い詰めていた様子だったHIDEが

「よし!決めた!オレXに入る!うおおおおおっ!」

っていきなり言うんですよ。

その途端、それまで黙ってたTOSHIとTAIJIが

「うお~!!!!」とか大騒ぎし始めて、大盛りあがりになったというエピソードがあります。

帰り道で組体操したとかいうあれですね(笑)。

こうしてHIDEはXに加入します。

HIDEいわく

「YOSHIKIという一人の人間の持っている未知の可能性にかけたくなった」

とのこと。

HIDEはそれまでギター1人だったXも、ツインリードで行くことをYOSHIKIに提案。

サーベルタイガーでツインリードをやっていた相棒のREMをXに誘いますが、歯科医師の道を選んでいたREMに断られたので、YOSHIKIは以前からXにヘルプで来ていた元ジュディのPATAを

「もうX入っちゃいなよ」

と誘い、黄金メンバーが出揃うという流れです。

XのメンバーとしてのHIDE

Xに加入したHIDEは、それまでのリーダーとしての責務から開放され、YOSHIKIという人間の船に乗っかるという表現が正しいのかな?

サーベルタイガーは自身のバンドだったので、自分が主体となってなんでも決定していたのですが、『XはYOSHIKIのバンド』という考えから、YOSHIKIの相談役というかアドバイザーみたいな立ち位置になります。

基本的にバンドの方向性を決定するのはYOSHIKI。

HIDEはTAIJIのようにYOSHIKIの判断に異を唱えたり、ぶつかるのではなく、YOSHIKIの一番の理解者としてサポートすることに徹するんですね。

最初はバンドのいちギタリストとして、PATAと一緒にYOSHIKIの作るメロディをギターで表現したり、TAIJIと一緒にアレンジを考えたり。

そうやってYOSHIKIを支えながらも、HIDEとしての個性を徐々にXの中でも出し始めます。

特徴的なのは、HIDEはギタリストとしての立場に固執しないスタンスを取るんですよ。

PATAとギターの腕前を張り合ってエゴをむき出しにするのではなく、自分が苦手な速弾きソロや高速リフとかに関しては、

「PATA、弾いてくれない?」

と任せ、自分は作曲面で貢献できることや、アレンジ面で貢献できること、ライブでのパフォーマンスやヴィジュアル面で貢献できることといったように、自分が得意なことに専念し、PATAが得意なことは素直に任せる。

これがHIDEとPATAが馬が合う理由です。

ちなみにこの時のPATAと築いた関係性というかパートナーシップは、HIDEがhideとしてソロ活動をやり始めてからでも、そのまま流用できてしまうんですよね。

こういうやり方なので「オルガスム」や「スタブ・ミー・イン・ザ・バック」のような超高速曲でのギターソロはPATAが担当し、「エンドレスレイン」「紅」といったメロディアスでドラマティックなギターソロはHIDEが担当するといった役割分担も出来ていたみたいです。

ギタリストとしての立場に固執せず、自分がXの中で貢献できることを突き詰めた結果、徐々にYOSHIKIでは持ち合わせていないカラーをアルバムに加えたり、ステージでも独特のパフォーマンスやファッション性を発揮し始めます。

楽曲で言うと『ジョーカー』や『セレブレーション』といった、陽気でポップなナンバーをXに加えること。

また、パフォーマンスでは『HIDEの部屋』のような自由すぎるアヴァンギャルド表現だったり、ヴィジュアル面でもプロモーションビデオに見られる視覚的アプローチの追求がそれです。

これらXで培った素養はその後どんどん発展していきます。

LUNASEAのJやINORANとインダストリアルロックの楽曲を共作したり、ZI:KILLのタスクと映像作品を作ったり、『無言激』のようにヴィジュアルを追求した写真集を発表したり、その表現欲求はとどまるところを知りませんでした。

画像引用:『無言激』(音楽専科社)

その個性はだんだんとバンドのいちギタリストとしては収まらないほどの個性にまで成長していき、Xの中でも最もカリスマ性を放つメンバーとなっていきます。

ソロとしてのhide

バンドのいちギタリストとしての枠にはもはや収まりきらない音楽的表現欲求を持っていたHIDEですが、

「俺はXのギタリストだ」

という『Xあっての自分』という考えを持っていたHIDEは、意外にもソロ・プロジェクトに対しては積極的ではなく、TOSHIから遅れること1年後にようやくシングル『50%50%』『アイズ・ラブ・ユー』の同時発売でhideとしてソロデビューします。

左:『アイズ・ラブ・ユー』          右:『50%50%』

ここからのhideはまるで水を得た魚のようでした。

Xが30分の大作『アート・オブ・ライフ』リリース以降、なにかに呪われたかのようにさまざまなトラブルで活動が停滞している時期に、待たせているファンを歓喜させるバイタリティで作品を連発。

Xが次作のアルバム『ダリア』(1996年)をリリースするまでにソロアルバムをなんと2枚も出します。

『ハイド・ユア・フェイス』と『サイエンス』というこの2枚のソロアルバムは、日本のロックの歴史に燦然と輝く名盤となりました。

この時期のHIDE人気はすさまじく、YOSHIKIやTOSHIにスポットライトが当たることが多かったXにおいて、そのファンがまるごとHIDEファンに移ってしまったかのようでした。

ミュージックステーションなどの音楽番組に出ても、観客はほぼ全員HIDEの名前を叫んでいるような状態。

東京ドームでの年末ライブでも、メンバーコール時に一番歓声が大きいのはHIDEでしたね。

Xは一年にシングル1枚をかろうじて出している状況で、アルバムは待てども暮せども出ない。

YOSHIKIは日本に帰ってこない。

なのに、hideは次から次へとシングルも出すし、全国ツアーもやるものだから、音楽番組への出演といったテレビ露出も一番多く、このhideの意欲的な活動がなければXファンは暴動を起こしてたかもしれません(笑)。

音楽雑誌を買っても、Xが記事になることがほとんどないんですよ。

Xの情報が欲しくて欲しくて仕方がないのに、YOSHIKIが出てこない。

そんなファンにとって、定期的に音楽雑誌に登場してくれるhideやTOSHIの存在はありがたかったな~。

個人的な話をすると、私が中学3年でXと出会ったタイミングは『アート・オブ・ライフ』リリース直後。

つまりXが全く日本にいなくて、何も活動が見えない状況の中でしたので、hideのソロがドンピシャのリアルタイムなんですよ。

もう飛ぶ鳥を落とすぐらいの勢いでhideが活躍してました。

私の世代(1978年生まれ)はXのど真ん中世代よりチョイ下くらいなので、TAIJIがいた頃の全盛期はリアルタイムで見れなかったんですよ。

そんな世代にとって一番嬉しいのは、あのhideという稀代のパフォーマーが一番活き活きして活動していた時期を丸ごとリアルタイムで体験出来たことだと思ってます。

後輩に可能性を与えた偉大なる先人

そもそも『ヴィジュアル系』っていう言葉はhideが発端です。

Xのキャッチコピーとして

「psychedelic violence clime of visual shock」

という言葉を生み出したのはhideで、これがいわゆるヴィジュアル系の語源となってます。

直訳しても意味があんまり分からないと思うので、勝手に意訳すると

『幻覚的で暴力的で犯罪的なまでの視覚的衝撃をテメェらに与えてやるぜ!』

ってことになります(笑)。

後に何かのビデオ(『刺激』かな?)でのキャッチコピーになる

『お前の瞳にドロップキック!』

と要は同じです(笑)。

このXの犯罪的なまでの視覚的衝撃に感化された後輩ミュージシャンたちが、後にどんどん出てくるのですが、hideはこれらの後輩たちを率先して引き上げる動きをします。

YOSHIKIはインディー時代にXでレコードをリリースしようとしたところ、どこも取り合ってくれなかったので自分でレコード会社『エクスタシー・レコーズ』を立ち上げます。

そのエクスタシーレコーズで作品をリリースさせる若手バンドを発掘するのが、hideの役割だったんです。

別に役割だからやっていたわけじゃないんですが、

「YOSHIKI、すごいかっこいいバンドがいるよ」

とYOSHIKIに紹介していたのがhide。

ZI:KILL、LUNASEAといった後輩バンドたちをライブハウスから発掘してきたのはhideなんです。

hideの見る目に狂いはなく、どちらのバンドもブレイクします。

この時にhideは自身の影響力とか、立場を自覚したんじゃないでしょうか?

その後はインタビューなどでも意図的に意識的に自分が気に入ったバンド・アーティストなんかを語ってましたね。

イエローモンキーの『球根』を褒めたり、Coccoのアルバム『ブーゲンビリア』をほめたりと、カテゴリーにはこだわってないようでした。

シングル『球根』

『ブーゲンビリア』

最終的には『Lemoned』というレーベルまで作って、ZEPPET STOREというバンドをデビューさせたりもしてました。

hideという人が後輩やファンから慕われて、葬式でもあれだけの参列者が来たり、メモリアル・サミットにあれだけ多くの多彩なアーティストが出揃うのは、hideのこうした人間性から来るものだと思いますよ。

 

hideにとっての音楽とヴィジュアル

hideはXに加入したときからPATAには

「俺はギタリストじゃないからギターのことは任せた」

というニュアンスの発言をしていました。

hideはギターの腕前を追求したり、速弾きを聴かせるということにあまり執着がなく、追い求めているものがパフォーマンス寄りだったんですね。

これはhideが大好きだったキッス、オジー・オズボーン、アリス・クーパーなどの『魅せるロック』を体現していたアーティストの影響があります。

オジー・オズボーン

もともとXにはhide加入以前からこの『魅せるロック』という要素が強く、ライブもファッションもど派手だったので、Xに加入したのはそういう部分に共感した面も大きいと思います。

Xのライブを見ていても、下(ギター)を向いて黙々とプレイに専念するPATAとは対象的に、hideはほとんど手元など見ずにお客の方ばかり見て煽(あお)り続けているんですよ。

自分が『見られている』ということを徹底的に意識して、頭の天辺から爪の先に至るまで全て魅せることに集中しているというか。

ファッションから立居振舞に至るまで全てがパフォーマンスとして研ぎ澄まされているというか。

カメラの前でダサいカッコをしていることなんてありえないし、いつだって背筋がしゃんとしてるし、間抜けヅラをさらしたりすることなんてまず有り得ません。

それだけにとどまらず、その後ソロとなってからのMVは、『楽曲の宣伝のための特典(おまけ)』などではなく、それ自体を1つの映像作品として向き合う姿勢を感じました。

カメラマンや映像監督に言われるがままにやっつけ仕事で撮るのではなく、一緒になって最新の撮影方法を試してみたり、加工技術を試してみたり、そこに深いテーマを込めてみたり。

これは他のヴィジュアル系アーティストらのナルシスズムとか美意識の高さとかいうものとは根本的に違うんですよね。

「かっこよく映りたい」

とかいう俗物的な発想じゃないというか。

プリクラやスノー(カメラアプリ)を使って可愛く映りたい女子たちの願望のようなものとは根本的に違うんです。

音楽を作ることと全く同じ地平線上に映像作品を作ることがあるっているか。

自分という存在自体が映像作品の素材というか。

それが一番強く感じられるのが写真集『無言激』です。

「サイケデリック・バイオレンス・クライム・オブ・ヴィジュアル・ショック」

というのはまさにこのこと。

あんなに視覚を刺激する写真集を他に見たことが有りません。

 

hideとお酒

hideの酒好きは有名。

そしてその酒乱伝説はYOSHIKIと同様にかなり破天荒なものになってます。

もともとビールしか飲めなかったhideに色んなお酒を教えたのはPATAです。

『D.O.D』という曲で

「日本酒・バーボン・ビールにアブサン・焼酎・どぶろく・テキーラ何でも来い!」

という歌詞がありますが、こんな人にしちゃったのはPATAです。

PATAはX随一の酒好きで、YOSHIKIやhideのように酒を飲んでテンション上がって暴れるということはなく、ちびちびダラダラとエンドレスで飲み続けるそうです。

これに対しhideの飲み方は真反対で、飲み始めるとバーボンとかの強いやつをガンガンやっちゃって、叫び始めて暴れだすっていう飲み方。

こういう飲み方って

翌日一番後悔して自己嫌悪になる飲み方

ですよね(笑)。

きっと繊細なhideのことだから、飲んだ時に普段のうっぷんが爆発しちゃうんでしょうね。

しかし不思議とこれがメンバーに向かうことはなく、PATAと二人で飲む時にそういう風になることはなかったそうです。

後にソロプロジェクトを二人三脚でやっていくINAが言うには

「とにかく人に暴力を振るうというよりはモノを破壊する」

とのことで、何の脈絡もなく歩いている途中でいきなり破壊行為を始めるらしいです(笑)。

一緒に飲みたくないな~。

アメリカでは警察に捕まろうとしたこともあるそうで。

ちなみにこういうのって他の人が先に始めてしまうと、乗り遅れた方は妙に冷静になってしまうのはよくあることです。

なので、Xのメンバーの酒乱3人組であるYOSHIKI、HIDE、TAIJIの誰かが暴れ始めたときは他のメンバーが止めに入り、決して皆で同時に暴れ始めることはなかったとのこと(TAIJIの自伝より)。

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