『パンドラ ザ・イエロー・モンキー PUNCH DRUNKARD TOUR THE MOVIE』過酷なツアーの裏を追ったドキュメント
本記事はプロモーションを含みます。
どうもSimackyです。
本日は2013年に公開されたイエローモンキーのドキュメンタリー映画
『パンドラ ザ・イエロー・モンキー PUNCH DRUNKARD TOUR THE MOVIE』
を語っていきますよ。
パンドラの箱がいよいよ開きますよ~。
『イエモン史上最も過酷なツアー』
の裏側で何が起こっていたのか!?
とくと語っていきますよ~!
※ネタバレを多分に含みますので、ご了承ください。
『パンドラ』はどんな映画?
本作『パンドラ ザ・イエロー・モンキー PUNCH DRUNKARD TOUR THE MOVIE』(以下パンドラ)はドキュメンタリー映画です。
1998年4月~1999年3月までまるまる1年をかけた長大な全国ツアー113公演『パンチドランカーツアー』。
そのツアー中における舞台裏、移動中、合間を縫って行われる撮影などの映像がメインで、その合間合間にライブ演奏やMCシーンが入ります。
ライブ演奏シーンとしては、
プレライブでの『パンチドランカー』、
イギリス公演での『BLUB』(球根の英語版)、
1999年年明けから初お披露目となり、ラスト曲(アンコール)の定番となった『ソー・ヤング』、
「メカラウロコ9」での『真珠色の革命時代』、
フジロックでの『天国旅行』
などなど、ツアーだけではない演奏シーンも盛りだくさん。
また、ツアーを振り返ったメンバー、レコード会社社長、スタッフらの2013年のインタビューも入ってきます。
その収録時間はたっぷり113分。
なんとパンチドランカーの公演数113に、合わせてあるという誰も気づかないこだわり(笑)。
1990年代のロックスターなんて、今のようにYou Tubeであらゆることがさらされている時代とは違って、未知のヴェールに包まれたカリスマだった時代です。
そんなカリスマたちのステージ裏の映像はあまりにも貴重で、しかしあまりにも普通であるため肩透かしを食らう部分はあるかもしれません。
これは今の時代だからこそ出せる作風だと感じました。
「ロックスターはイメージが大事」
の時代でしたから。
メンバーのインタビューと同じか、それ以上のウエイトで関係スタッフのインタビューが挟まれますので、音楽興行というものはミュージシャンだけで成り立っているのではない、ということが強く伝わってきます。
「裏方といわれるスタッフの人達も、これだけの考えや思いがあって一緒に全力で取り組んでいるんだな」
ということがよく分かりますね。
それだけに、ツアーを共にしたスタッフたちはまさに『戦友』であり『ファミリー』のようなもの。
そんなスタッフがステージの『奈落』に落ちて事故死してしまったことは、メンバーにとって我々が想像する以上にショックな出来事だったことが想像できます。
また、1年間も日本中を回り続けるのですから、関係者のほぼ全員が家を1年間留守にするわけです。
華やかなステージの裏では、確実に犠牲になっている家族との時間があるんですね。
このことによって思わぬ壁にぶつかってしまったのが、意外にもロビンだったんです。
当時の奥さんが精神的にやられてしまって、ツアーに帯同することに。
ツアー序盤では元気だったロビンが楽屋で塞ぎ込んで、誰も話しかけられないシーンもあります。
メンバーは皆、ツアーが進むごとに何かしら体を故障し始めるんですけど、ロビンは観ていて可哀想なほど。
「え?まだツアーの1/3も終わっていないのに、こんな状態だったの?」
っていうほど、前半でかなりの無理が見られ、とても113本をやり遂げられる雰囲気は皆無です。
彼らが果てしないツアーの先に見たものは栄光の大地か?
はたまた破滅の死刑台か?
視聴者の心に残るのは果たして感動と呼べるのか?
どんよりとした暗い不安感なのか?
簡単にハッピーエンドで終わる代物ではございません。
パンチドランカーツアー中のスケジュール
1年に渡るパンチドランカーツアー中の彼らのスケジュールはどんなものだったのか?
それを知ると、この作品がより楽しめると思うので、ここでは時系列でまとめます。
まず、ツアー前のプレライブとして赤坂BLITZで3月27日に公演。
そして4月3日の埼玉からツアーはスタートします。
この初月になんと彼らは16本もの公演を行います。
3日に1回とか言っていたけど、2日に1回やないかい!
そう、1年に113本とは言っても、途中ライブをやらない期間が1ヶ月とかちょいちょい入ってきますので、それらを差っ引くと実質的に9ヶ月くらいで113本やっているんですよ、実は。
彼らがいかに濃縮されたツアーを行ったかお分かりいただけたでしょうか?
そして嵐のような4月を乗り切ったイエモンに5月に入るなり、ある訃報が入ります。
hideの死です。
ロビンはインディ時代からhideとは仲良くしており、ロビンのラジオ番組オールナイトニッポンにhideがゲスト出演したり、直近でリリースされた『球根』をhideが褒めてくれたりしていました。
しかもイエモンはこの訃報を聴いた5月2日は、hideの地元である神奈川県民ホールにいたのです!
hideへの追悼の想いを込めて演奏された『球根』がこちら。⇩
そのまま7月中旬までは2日に1回という地獄のハイペースで3ヶ月半走り続けてるんですよ。
そんなさなか、6月には『離れるな』、7月にはイギリス版『甘い経験』である『シュガー・フィックス』がシングルカットされます。
海外での初シングルリリースに合わせ、7月18・20日にはイギリスに飛んで2公演を行い、ここから8月末までの40日間、ツアーの空白期間があります。
休む?そんなわけありません。
この40日間でシングル『マイ・ワインディング・ロード』『ソー・ヤング』のカップリングも含めた4曲をレコーディングするためです。
レコーディング後は9月1日よりすぐにツアーを再開しますが、9月9日香川県民ホールでとうとうロビンが倒れます。
ツアー日程はやっと60日目。
ようやく113本の半ばを超えたところで、まだまだ53本もの公演を残した時点で、完全に限界かと思われました。
しかしロビンはツアーを続ける意志を見せ、この恐るべきハイペースのツアーは1公演も“飛ぶ“ことなく続行されます。
もう痛々しい…。
精神的にも肉体的にもボロボロのロビンは、ホールツアーの最終日となる10月6日岡山市民会館のステージで
「このツアーは失敗でした」
と発言します。
この発言が出た真意に関しては後述します。
シングル『マイ・ワインディング・ロード』が10月にリリースされ、引き続きツアーを11月一杯まで突っ走って一旦終わり、年末には恒例の「メカラウロコ」武道館2公演が行われます。
1999年年明けのスタートは1月8・9日グリーンドーム前橋2公演。
ツアー残り23公演を迎えた終盤戦が始まります。
しかし、この前橋で先述したスタッフの事故死が起きます。
このスタッフの死はメンバー以上にスタッフ関係者を打ちのめし、メンバーが「声のかけようがなかった」と語るほど。
スタッフインタビューでは、「10年以上立ち直ることが出来なかった」と語るほどなので、チームが陰鬱な空気に包まれたことは想像に固くありません。
しかし容赦なくツアーは続きます。
1月に9本、2月に12本のライブをやり遂げ、3月3日にはシングル『ソー・ヤング』リリース。
そしてついにラストの横浜アリーナにたどり着くのが3月6・7・9・10日。
最終日のラスト『ソー・ヤング』では、声が出る出ない以前に、もはや立っているのがやっとと言った印象で、一瞬ロビンが90歳のおじいちゃんに見えるほど、ゲッソリしてます。
こうして無事、1本も飛ばすことなく激動の1年間を突っ走り終えました。
メンバーにとっても、スタッフにとっても、ただただ消耗し、疲弊しきってしまったこのツアー。
しかし、このツアーでのライブには、燃え尽きる寸前の蝋燭の輝きがあります。
ツアーは過酷であったのに、彼らのライブはいつだって全力で、すさまじいパフォーマンスを誇ります。
この伝説のツアーを収録したライブ盤『ソー・アライブ』は、イエモンの驚くべき熱量の詰まったライブアルバムの名盤ですので、ぜひ一度聴いてみてください。
『失敗だった』発言の真意とは?
岡山でのロビンの『失敗』発言。
もしあなたがライブ見ていて、ステージのMCでこんなこと言われたらどう感じます?
ちょっと反応に困りますよね?
本作では実際にそのシーンもあるのですが、お客はジョークだと思って最初は笑ってるんですよ。
けど、待てども暮せどもロビンがオチを入れないから、ちょっとどよめいてます。
お客はいつだって全力で悔いのないパフォーマンスをしてくれると、信じているんですよ。
「俺は今回のツアーで出し尽くしたぞ!」
って言われたら嬉しいけど、『失敗』とか言われたら、本人たちさえ納得していないものを見せられていたのか?とも思いますよね?
まあ、ロビンには言葉足らずなことがあって、あまりも説明がなかったため物議を醸したのだと思います。
実はこれ、本人も2013年のインタビューで語っているのですが、発端はフジロックなんですよ。
フジロックでアメリカの大御所バンドたちに挟まれ、本場の圧倒的な音圧、テンションを見せつけられ、
「やっぱり日本人じゃ本場には勝てないのか?どうすればああなれる?」
と葛藤し、よりロック然としたスタンスでライブを行おうとした結果、イエモンの『洋楽』部分を表現した楽曲のセットリストになってしまい、それがお客の求めることとは違っていた。
それはツアー中から感じていた。
分かっていたにも関わらず、違和感を感じているにも関わらず、ずっと自分たちの考えるロック然としたものを押し付けてしまう形になってしまった。
その意味での「失敗だった」発言なんです。
まあ、ここまで理路整然と説明されたところで、お客にそれを言うか?って話ではあるのですが(笑)。
なので、ホールツアーラストとなった岡山後から、次のアリーナツアーまでの間にセットリストを大幅に見直します。
ざっくり言うと、ほぼ『パンチドランカー』からの曲でガチガチに固めていたセットを、『フォー・シーズンズ』『SICKS』の楽曲も導入し、ダークで攻撃的だったセットから、明るく笑える要素も盛り込んだセットに変えました。
具体的に説明しましょう。
まず、オープニングの『パンチドランカー』で始まるのは変わらず。
2曲目が『チェルシー・ガール』『AHENな飴玉』が来ることが多かったのですが、『ロック・スター』や『ラブ・コミュニケーション』といったモロに明るい楽曲へ。
また序盤は、『パンチドランカー』からのアルバム曲である『間違いねぇな』『クズ社会の赤いバラ』『離れるな』、またダーク色の強い『天国旅行』『赤裸々ゴーゴーゴー』が外れ、替わりに『フォー・シーズン』『花吹雪』『マイ・ワインディング・ロード』、そしてダメ押しであの『見てないようで見てる』が入ってきます。
全っ然違いますよね。
こりゃ確かにアリーナのセットリストのほうがお客は大盛り上がりですわ(笑)。
これ結局どういうことかと言うとですね、これだけ全国津々浦々、多くの場所を回ってしまうと、お客さんはコアなファンだけじゃなくて
「イエモンはアルバム1,2枚しか聴いてないけど好き」
「イエモンはシングルしか知らない」
っていう浅いファンだって多く来場しているってことなんですよ。
コアファンだけじゃおそらくこれだけの会場をソールドアウトできないですから。
「メカラウロコ」みたいに年に1回コアファンだけを集めるようなライブであれば、以前のセットでもいいのですが、全国ツアーに集まったお客さんたちは『イエモンビギナー』が多いわけで、それに対するセットが『重すぎた』、ということでしょう。
なので、このセットリストの変更は大正解だったと思いますよ。
そういうことを考えると、ロビンの発言って至極真っ当であって、疲れて血迷った発言をしたということでもないんですよね。
ただ、それを目の前のお客に言うかって話なんですが。
そういうことは音楽雑誌の『ギグス』とかで話しとけばいいと思うのですが(笑)。
『パンドラ』は再結成へのきっかけ?
この作品で注目すべきなのは、このメンバーインタビューが
全員揃って和気あいあいとインタビューに応じている
ことなんです。
ボーリングなんかしながら(笑)。
私は最近観たので
「あー、メンバーが楽しそうに話してるから再結成後にインタビューしたのね」
と最初は思ってました。
けど、あれ?この映画の公開って…2013年?
あれ?
イエモンが再結成したのは…2016年だよね?
ん?
どゆこと?
そう、この人たちは解散している時期でも、実は結構仲良くしていたのです。
メンバー間に心理的なわだかまりは全く感じられず、けど、再結成するには背中を一押しする何かが必要だったんじゃないかな?
その再結成に向かう背中を推した要因が2つあると思います。
1つは、ロビンが2013年にロンドンのハイドパークで、ローリング・ストーンズのライブを観て
「やっぱりバンドは宝だ!」
と気がついてしまったこと。
ロビンはこの後すぐさまメンバー全員に再結成をメールで呼びかけます。
そして、もう1つが映画『パンドラ』制作の過程で、メンバー4人で一緒にインタビューを受けたこと、なんじゃないかな?
ただただ辛いだけだったパンチドランカーツアー。
体は満身創痍、スタッフの事故死、それによるメンバー・スタッフの精神的ダメージ。
終わった後の印象は決して良いものではなかったはずです。
けれども、あらためてメンバーで振り返ってみると、間違いなく楽しかった部分もあったし、充実していたこともあったし、スタッフたちとの仲間意識も素晴らしかった。
「あのツアーには何も悪い面ばかりじゃなかった」
と、気がついた時に、メンバーやスタッフが愛おしく思えたのではないでしょうか?
ロビンからメンバーへのメールと、このインタビューはどちらも2013年のできごとなので、どちらが先かは残念ながら分かりませんでした。
しかし、この2つのきっかけはどちらもイエモンの再結成に重要な役割を果たしたのだと思います。
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